昔から、東西の要所であったため、日本の発展に貢献した多くの人々の足跡が、いたるところに残っている地域です。
 
 道が開けたのは2世紀頃からで、当時の人々は浜岡、相良(さがら)、焼津を通って大崩海岸(おおくずれかいがん)を歩き、石部(せきべ=岩がごつごつしている海岸)、大和田(おおわだ=わだとは海のこと)、井尻(いじり)、細工所(さいくじょ)、宗小路(そうこうじ)、向敷地(むこうしきぢ)から牧ケ谷を通って舟山(ふなやま)沿いに安倍の市に入りました。
 4世紀以後になると道らしきものができ、焼津の花沢の里から日本坂に入り、満観峰南部を通って小坂地区に出るようになりました。(この道は8世紀ころまで使用)この頃になると、現在の用宗海岸の位置まで海が後退し、丸子地区も山沿いに人が住むようになりました。現在出土する古墳は、主だった村長のものと思われます。
 
 7世紀(奈良時代)になると丸子川沿いにも人が住みはじめました。8世紀(平安時代)になると一部の農民が往来していた『つたの細道』は東西の重要なルートになっていきます。
 
 10世紀(鎌倉時代)になると約800人くらいに住人が増え、元宿(もとしゅく)から5丁目にかけて、市が立つようになりました。また、丸子の中心を流れる丸子川は当時はとても急流で、いく度となく人や家を流していたため、丸子宿の整備とともに西側の山沿いに流れを変えたとされています。(丸子城を整備した武田信玄が丸子川を改修したとも伝えられています)
 
 15世紀の東海道は、宇津ノ谷峠や手児の呼坂(よびさか)の道幅は1mたらず。こんな山道を、今川義元は天下をねらい4万の兵とともに京に向かい、豊臣秀吉は小田原を攻めるために約10万の兵と馬をひきつれ、また徳川家康は家康が江戸から関ヶ原に向かって約20もの兵や馬が、大砲や食料を持って歩きました。17世紀になり天下を統一すると、道や川の整備、新田開発が急速に進み、東海道が整備され丸子宿がつくられました。
 
 温和な気候のため昔からみかんや稲作、野菜作りを中心とした農業をおこなってきました。昭和30年頃から高度経済成長とともに、金属団地の造成が始まり、現在では静岡市の金属関係の生産及び各種流通業界の中心地として発達しています。
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